田村酒造場の歴史

福生と共に歩む田村家

田村家は武蔵国多摩郡福生村(現:福生市)に代を重ねてきました。一番古い文書で1600年後半に先祖「半十郎 豊真」の名が見られ、福生村を切り開いた旧家の一軒であったと思われます。
歴代の当主は半十郎・十兵衛あるいは文左衛門という通称で呼ばれていました。江戸時代の福生村は天領(江戸幕府の直轄領)で、田村家は村の政治一般を司る名主などの村役を勤めて参りました。当家の屋敷内に流れる田村分水は隣接する玉川上水より取水し、地域の生活用水や水田・畑を潤す灌漑用水として使われていました。

酒造業の開始

「半十郎(豊真)」から数えて九代目の「勘次郎(賢真)」は28歳で名主役を継ぎ、文政5年(1822年)の46歳の時に酒造業を興しました。当時の江戸は華やかな文化文政期を迎え、急速に発展していきました。飲食の需要が拡大し、主流だった上方(関西)で生産する“下り酒”に代わるものとして幕府は“江戸地廻り酒”の生産を奨励しました。

田村家は敷地内の井戸に、酒造りに好適な中硬水の秩父奥多摩伏流水を得た喜びから“嘉泉“と酒銘を定めました。

左)田村家の敷地内の井戸  右)嘉泉

左)田村家の敷地内の井戸  右)嘉泉

創業者 田村勘次郎(賢真)

創業者 田村勘次郎(賢真)

創業以来の家訓は「丁寧に造って 丁寧に売る」

「勘次郎(賢真)」は今で言うチェーン店のように近在の酒造家・酒店と店内関係を結び、総本店として酒造技術や経営ノウハウの提供を図り、酒造販売を一貫した組織体制を築きました。店蔵の数は武州一帯(多摩地区、神奈川県、埼玉 県の一部)に24を数えました。当家の家印「かねじゅう」は、この組織の印として使われていました。

一方、田村酒造場の酒造りにおいては家訓「丁寧に造って 丁寧に売る」の精神を守り、大規模生産を行う蔵がある中で、目が行き届く1500石前後の造り高を守り続けました。

右)大寳惠帳(表)   左)大寳惠帳(中)

田村家の人々

江戸時代後期の多摩地域には在村俳人といわれる人々が多くなり、名のある俳人との交流も盛んでした。田村家もまた俳句と縁が深くありました。 創業者の「勘次郎(賢真)」は幽夢を号し、俳句の道にも励みました。また、11代目「十兵衛(のち勘次郎)豊昌」は幕末から明治に移りゆく激動の世でありながら家業経営を発展・向上する一方で、多摩を代表する俳人として活動し、「福泉舎友甫」と号しました。「福泉舎友甫」が還暦の時に詠んだ句です。

「これからも またおもしろき 花の春」

福泉舎友甫

福泉舎友甫

近代の酒造り

明治36年(1903年)、社会の変化に伴う酒税政策や税法の整備に伴い、江戸時代より続いた「店内関係」は役割を終えました。創業以来、幕末に至るまで損失の年が無かったという記録があり、堅実な経営スタイルであったことが偲ばれます。

時代は流れて、昭和50年頃のこと。先代の15代目「田村半十郎」が田村酒造場の代表作となる「まぼろしの酒 嘉泉」を産み出しました。本来は一級酒となる高精白の本醸造を二級酒として販売することは画期的なことでした。生活に寄り添う価格ながら、酒質に優れ、今もなお続くベストセラーになっています。

これからの酒造り

平成20年(2008年)に現当主、16代目「田村半十郎」が襲名しました。 代々育んできた思想を受け継ぎ、全銘柄の酒質向上に取り組むとともに当家の気風である「進取の精神」にならい、時代をとらえた田村酒造場らしい酒造りに邁進しています。

家印「かねじゅう」

手間暇を厭わぬ瓶燗火入れを採用し、当家の家印を冠した「かねじゅう 田むら」や、お燗酒の復活の願いを込めた「純米酒 白麹使用」などの新商品の提案を行っています。

左)田むら吟ぎんが  中央)田むら山酒4号  右)純米酒白麹

左)田むら吟ぎんが  中央)田むら山酒4号  右)純米酒白麹

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